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生涯, 業績

先祖23年(1590)~玄宗15年(1674)。
雲嶽李涵先生の三男で、字は晦叔、雅号は石渓、寧海仁良里出身の朝鮮時代学者で文人である。
12、13歳の時には祖父に添い、ソウル修学し、父親が宜寧県監に赴任する際、少年としてついて行ったが、
忘憂堂郭再佑から節操を崇めたてるのに他の人よりはるかに高いという評を受けた。
1612年に進士試に合格し、仁祖14年(1636)に丙子胡乱が起きて南漢山城が40余日間孤立され三田渡(現、ソウル松坡)で屈辱的な和議を結ぶと、悲憤慷慨し課題を止め、翌年(1637)母を連れ雲岳先生の墓がある大田に入り隠居した。
この際、朝廷では 江陵參奉に除授 したが、受けず 仁祖18年(1640)、英陽郡の石保に入り、石渓の上に家を建てて石渓と名づけた。
仁祖 22年(1644)に母親が亡くなり、仁良に戻って3回忌を終えた後、また 石保行くが、 孝宗4年(1653)に英陽に入り幽居記を執筆し、隠居の志を明らかにした。 その後、20年が過ぎた玄宗13年(1672)に子孫の成長と進取を考え、再び安東の兜率院に移った。
当時、清廉剛直で、道徳と学問の高い宰相だった龍洲趙絅は李時明に「家中が鹿門に入るという話を聞いたが、もうその人を見ており、また筍氏の八龍がいて詩礼を教わるが、これは徳公にはなかったのが公にはこれがある」と言った。
石渓李時明は安東に戻って3年が経った頃、享年85歳で他界した。その後、葛庵李玄逸の懸達として吏曹判書に推定された。 石渓先生文集3冊が伝える。