生涯, 業績
孝宗 8年(1657)~英祖6年(1730)。
葛庵李玄逸 の三男であり 諱は栽で、字は幼材、雅号は密庵。
少年になる前に小学、論語、 左氏伝にすでに通じ、自ら自警文を執筆したりもした。
祖母である張桂香先生は、「童子己向学可成儒者真」といい、詩を作ってほめたし恒斎李嵩逸の教えの元、太極図説、 重庸章句、儀礼などを渉猟した。
粛宗20年(1694)甲戌帰国で咸鏡道鐘城、全南光陽でに流配され、粛宗26年(1700)に安東錦陽に移ると習おうとする人々が集まり、この時から教えることを楽しむようになる。 粛宗30年(1704)に葛庵李玄逸 が他界すると家伝を編集し、残した文を集め、錦水記文といった。
英祖4年(1728)に朝廷で掌学院注簿として赴任することを催促したが、老病がひどく、また亡父文敬公に対する謀略が晴れなかったことを聞いて赴任せず、翌年また赴任しろとの命令が下されたが進まなかった。 先生は性理学の理と気に対して理だけを論じ、気を論じないのは孟子が性善説で言う志に附合するとし、その根本を追求するのに全力を尽くした。
この主理説の学脈は葛庵→密庵→ 大山(李象靖、1711~1781)→定斎(柳致明、1777~1861)に継承される。
著書としては顔曾全書、 朱書講錄刊補 、朱全集覧、それから密庵先生文集などがある。