生涯, 業績
高宗11年(1874~1917)。 諱は鉉圭、字は夏玄、雅号は奈山。
1905年11月、日帝により乙巳保護条約が強行され、国権が剥奪されると33歳で同志数十人と共に各地で通文を回して同志を糾合し、青松周王山に集まり義兵を挙げることを決議し、その年(1905) 12月中旬、蔚珍仏影寺で安東、栄養、青松、真宝などから集まった同志と義挙土賊することを決議したが、この時、義兵隊長として推戴されて各地に檄文を送り、義兵と武器および軍資金を集め、一ヶ月ぶりに義兵の数は5百人余りに達した。
義兵を青松周王山と安東清涼山に集結させ、昼夜で猛訓強行し、1906年2月に英陽郡笠岩に義陣を編成したが、中軍将に柳時淵、 召募将に申衡一、都塗将に金大圭 、都砲手に權大聲、執事に曺輐などを任命し、出撃して日本軍と数十回にかけた戦闘で大きい戦果を上げた。
この年(1906) 4月に 真宝戦闘で当時慶尚・江原両道の義兵掃討主力部隊である日憲兵五臓の武藤部隊と激しい接戦の末、絶えられなかった一等兵が敗走すると、すぐに戦局を追い込み青松郡巴川面魚川洞まで追撃し、隊長武藤など10余人の一等兵を射殺した。 しかしこの戦闘で執事 曺輐が戦死し、李鉉圭も負傷した。
その年5月に蔚珍郡竹邊港の倭館を撃破し、引き続き英陽郡日月などに駐留している日本軍を襲撃したが、一等兵支援部隊の反撃を受け、衆寡不敵で都塗将に金大圭など多くの同志を失うことになり、やむをえず退陣し、後日の再起を約束して義陣を解散させた。日本軍は李鉉圭を逮捕するために懸賞手配をし、自首を薦めながら官職を与えると誘惑したが、これをきっぱりと断り、彼を心配したある同志が自首することを薦めると叱りながら、「斉国の田横のように義に徹した死はしても、漢国の衛律のように汚く生きはしない」といい、直ちに迎日郡青蝦面某真理に避け、傷を治療する一方、書堂で後学教育に伝心しながら抗日救国運動を再起しようとしたが、傷の余毒が原因で44歳を一期で他界した。 政府では建国功労勲章国民葬を追叙し、1964年11月に慶北独立有功烈士遺族会と李夏鉉義士記念事業会で青松郡真宝面オヌジの道沿いに[義士李夏鉉先生記念日]を立てた。