
金道鉉と劍山城
慶尙北道英陽郡青杞面上青里にある大韓帝国末期の城1985年10月15日に慶尙北道記念物第65号に指定された。金奇八が所有している。大韓帝国末期に義兵長の金道鉉が築いた山城で今は城の跡だけ一部残っている。
金道鉉
- 定義:忠臣
- 字号:字は明玉、号は碧山
- 生涯:1852- 忠毅公、工曺判書、白材、金文起の15代目の孫で金性河參奉(官職名)の息子
- 活動事項:義兵大将、私立英興學校を創設
- 賞勲:大韓民國建國功勞勳章
- 文集:≪碧山集≫ 2卷
1852年に慶尙北道英陽郡青杞面上青里で生まれた。本貫は金寧、字は鳴玉、号は碧山、別名は燾鉉である。英陽郡で比較的裕福な家に生まれ、書堂で漢学を学び、科挙試験を準備したが売官売職に失望して故郷で隠居した。東学乱が起こって、點考之會を組織し上青里東川辺にある劍角山に石城を築き村里を防衛した。
1895年明成皇后弑害事件と断髪令に激憤した儒生たちが全国各地で乙未義兵(抗日義兵)を起したので金道鉉は1896年2月柳時淵と共に英陽·安東地方の義兵を集め慶北奉化郡淸凉山で兵を起した。そして奉化と榮州を占領して郡守が差し出した軍器で武装して安東に進軍し日本軍と戦闘を繰り広げた。その後靑松·義城·盈德·寧海·江陵に移動して官軍と日本軍を相手に戦闘を繰り広げ、訪れる地域で義兵の蜂起を促した。しかし当時挙兵した大部分の義兵隊は官軍と日本軍の優勢な戦勢に押されて敗退し、各地域の義兵隊は続々と解散した。戦勢が義兵隊にかなり不利に展開すると碧山は1896年9月義兵を解散し山中に隠居し高宗に上書文を捧げ国の国号を大韓帝国に変更する等、光武改革が不当であると主張した。
1905年に乙巳条約が締結されると全国でこれに反対する上書が相次ぎ、碧山は翌年の1906年再び義兵を募集して兵を起した。しかし英陽郡守の密告で挙兵が挫折し義兵を解散した。碧山は逮捕され獄中生活をした。1907年高宗が直接義兵の蜂起を促す密旨を彼に下しブンギョク将軍という称号を受けた。英陽に英興學校を建て育英事業に力を注いだが1914年に父親まで亡くなって、亡国を嘆く詩を残して寧海の觀魚臺の沖に投身自殺した。著書に《碧山先生倡義顚末》があり、1962年 建國勳章独立章が追叙された。