
閨壼是議方の貞夫人安東張氏
朝鮮中期に詩文と書画にたけているだけでなく子女教育の鏡となって後生に偉大な母親像として仰がれる貞夫人安東張 氏(1598~1680)
貞夫人張氏は宣祖31年慶北安東金溪里で生まれ肅宗6年83歳を一期として慶北英陽石保村で他界した。晩年に三番目の息子である葛庵、李玄逸が大学者で国家的な指導者にだけ付与される山林と呼ばれるようになり吏曹判書(官庁長官)を務め、法典によって貞夫人の職位が決められた。この時から「貞夫人張氏」と呼ばれるようになった。
強靭さと柔和さを備えた道徳的な品性で、年をとった人や寡婦、孤児のように頼るところのない人たちを人知れず助けた。夫人の文章は詩が9編、書簡1編が伝わっているが、ほとんど謙遜、澄んだ心、真の学者という性理学的(儒学の一つ)人間になることを語る内容である。結局貞夫人張氏は晩年になるほど隠れた才能と得行があらわれて称賛された。
貞夫人張氏の生涯と関連した家系についての研究は金思燁(1960)によって比較的簡略して叙述されその後、金炯秀によって家系と生涯、遺品と遺墨についての紹介と考証がなされた。筆者がここにさらに付け足すものはないので先立って研究された業績に頼って張氏夫人の生涯を簡略して紹介しようと思う。張氏夫人の生涯を理解するのはどのような観点で研究しても《食べ物ダミバン》は必ず必要な基礎になる。
三番目の息子玄逸が書いた「壙誌」(1844年に刊行された「貞夫人安東張氏實紀」に収録)とハングルに訳された張氏夫人の実記には夫人の様々な行跡が記録されている。懐妊して言行を昔の礼法どおりに行い、慈愛と厳格さをもって子供たちを薫陶し書芸と文章が上手ですばらしい筆跡を残したりもした。
張氏夫人の品行と徳がこのように高くて83歳になるまで子供の訓導に力を注いだので、これによって載寧李氏家門はより発展してすばらしい学者と名望がある棟樑が代々輩出された。夫人は1680年(肅宗6年)に83歳を一期として享年を終えた。張氏夫人が生涯の晩年を過ごした家は現在英陽郡石保面院里洞の「トウドル村」にあり、夫人の墓は安東郡壽洞にある。