
南慈賢と地境村
1919年に満州に亡命して西路軍政署で活躍する一方、独立運動の各団体と軍事機関及び農漁村を巡回しながら独立精神を鼓吹した。東満州12ヶ所に教会と礼拝堂を建てて伝道し、10ヶ所余りで女子教育会を設立して女性啓蒙に力を注いだ。
南慈賢
- 定義:愛国者
- 生涯:1872-1934 南廷漢先生の二番目の娘
- 活動事項:己未年3ㆍ1運動に参加し、農村の開発と啓蒙に努力し、日本陸軍隊長の武藤信義を満州国の建国の日である3月1日に爆殺する計画を立てたが失敗し、獄中生活をした。
- 賞勲:大韓民國建國功勞勳章
本貫は英陽。慶尙北道英陽で出生した。1895年に夫の金永周が義兵で日本軍と争って戦死し遺腹子を育てた。1919年の3·1運動の時、中国東北地方に渡り西路軍政署で活躍する一方、12ヶ所で教会を建立し10の女性教育会を組織して独立運動と女性啓蒙に力を注いだ。
1925年に朴靑山と韓国内に潜入、総督の齋藤實の暗殺を計画したが失敗し、1932年国際連盟のリターン調査団がハルビンに到着すると薬指を切って「朝鮮獨立願」という血書を書いて切った指と同封して伝達、祖国の独立を訴えた。1933年満州傀儡政府の建国日(3月1日)に李奎東等と一緒に日本の将校、武藤信義を殺害しようと爆弾と武器を携帯していて逮捕された。獄中でも断食して抗争していて病気保釈で釈放されたがハルビンで客死した。1962年に建國勳章大統領章が追叙された。