
吳一島(1901∼1946)
- 定義:詩人、學者、志士
- 字号 :本名は熙秉、雅號は一島
- 生涯:1901-1946 吳時俊、漆原縣監の10代目の孫で吳益休の二番目の息子
- 活動事項:詩苑を創刊、詩集(吳一島詩)、散文集(夕暮れ)
- 賞勳:吾家大路邊 我が家は道端
朝暮車連綿 朝夕に車が続く
送送淚何盡 過ぎてまた過ぎる涙どう終わるのか
歸期問杳然 いつ帰るのか尋ねると答えは遥か遠いだけ
(徵用車を送って(送徵用車))より
14歳まで郷里の私塾で漢文を勉強した後、1915年15歳で漢陽趙氏畢賢と結婚した。その後1918年英陽普通学校を卒業して上京、京城第一高等普通學校に入学したが卒業しなかった。
1922年日本の東京に渡り講習所で修学した後、立敎大學の哲学部に入学し1929年に卒業した。帰国後1年の間德成女子中高等学校の前身である槿花學校で無報酬教師として勤務していたとき故郷にいる上の兄の熙台から私財を得て1935年2月に詩專門雜誌≪詩苑≫を創刊した。この雑誌は1935年12月に5号を出して発行が中断された。
それまで彼は李軒求·金珖燮等と親しくし、また≪詩苑≫の発行を中断した後にも≪乙亥名詩選≫(1936)と夭折した趙芝薰の兄、趙東振の遺稿詩集である≪世林詩集≫(1938)を出版した。
彼の作品活動は1925年≪朝鮮文壇≫4号に詩<ハンカリム白沙場で>を発表しながら始まった。しかし本格的に創作活動を展開したのは≪詩苑≫を創刊してからだったが、ここに<爐邊の哀歌)>·<雪よ! 早く降ってくれ>·<窓を南側に>·<黄色い葡萄の葉>·<壁書>·<我が恋人よ!>等を発表した。彼はそれ以外にも多数の漢詩及び漢訳詩をたくさん残したが詩集は一冊も出せなかった。
彼の作品は浪漫主義の基礎の上に愛情と詠嘆がお互い絡まっている傾向を見せている。したがって彼の詩は知性で感情を節制するというよりむしろ感情の自由な表出に力点を置いた。そしてそこに込められた愛情と詠嘆はそれによって暗くて陰気で暗鬱な情緒を主に詠うようになっている。