
官衙の裁判を模倣して風刺した遊び - 村の青壮年たちが村人と地方属吏に扮装して罪人をこっけいに治め、罪人は銭穀で罪をつぐなう。この時に集まった銭穀は村の共同基金として使われた。
慶北北部一帶では昔ウオン遊びという演技ㆍ娯楽的遊びが盛んだった。しかし今から70年前になくなってしまった。特に安東圈一帯では民俗遊びが多かっただろうと思われるが、現在ノッタリパルキやチャジョンノリが復元されて残っているだけだ。ウオン遊びも英陽郡一帯と近隣の村で演技されていたが全てなくなり、英陽でだけ再現されています。
演技時期と場所
「ウオン遊び」は主に陰暦正月初旬、農閑期である新年初めに上演された。昔から民族単位で形成された慶北北部一帯の部落に正月15日まで家ごとに訪問して新年のあいさつをするのが風俗であった。昨年1年間農耕に追われてやっと暇な時間をもった農民たちにはこのうえなく楽しい年初めに違いなかった。
正月の祭礼が終わって本家と分家及び隣近所の方への新年の挨拶も終えて酒や食べ物が豊富な年の初めは新年の希望と共にとても暇なので村の青年たちは三々五々一カ所に集まって「ウオン遊び」を行った。
韓国の民間風習は主に正月に様々な遊びが催された。「ウオン遊び」も農閑期なので農業に関係する内容が多かった。純粋な娯楽として演じられた当時は農業と関係したものが中心内容だったが、だんだんそれが拡大発展した後には一種の社会批判的意味に変り社会に物議をかもしたようだ。
老人たちによると英陽にはもともと100個の部落が散在していたと伝えられている。「ウオン遊び」は英陽郡の全域にわたって上演されたがその中でもいちばん派手で大々的に演じられたのは日月面注谷洞と現在の英陽邑であった。
「ウオン遊び」は奉化郡一帯及び聞慶まで伝播され江原道南部、三陟近くの平野より山林が多い地域ー主に農業で生計を維持して交通が不便で地方官の行政力が及ばない地域ーで主に上演された。それで地方官長が百姓の生殺与奪を専行する権力など説話でしか聞いたことがない人がかなり多かった。しかも英陽は長い歳月の間県に昇格できなかった事実からして一層そうであっただろうと推測される。
舞台は主に富農の縁側やご老人の叱責を避けるために行廊房(門の横の部屋)を利用したりもした。月が明るい夜には部落の広場や丘で大衆が見ている中で演技されたりもした。しかし夜間よりは昼間にたくさん催されたようで、部落単位ではなくいくつかの部落の共同組織でするときはとても大きな遊びになって、この部落あの部落と巡回しながら家ごとに入っていって募金募穀するまでになった。それで後代の「ウオン遊び」は素朴な遊びから逸脱して舞台も一定していなかったので今日の「門付」のような内容に変貌した。
演技内容
韓国の民俗劇の台詞がだいたい語り継がれて命脈をつないでおり、公演環境によって即興で台詞を変更したり挿入したりすることが多かった。「ウオン遊び」ももちろん一定した脚本もなく大部分が即興的だったが事前に多少準備はしたという。農民の遊びなので農業と関係が少なくないが主な内容はどこまでも地方管理が先制する行政、軍事、司法、条例、賦役等の範囲の中で骨子が採択された。賀儀が終わると官吏や下の吏卒たちはすぐに県民の違法が事実かどうか尋ね犯罪者を出頭させ追求するのだがその中には揶揄やユーモアが入っていて爆笑をさそったりもした。
朝鮮王朝の官衙の犯罪捜査は告訴、告発、糾弾、犯罪認知も行ったが糾問主義の自白強要で裁判した。「ウオン遊び」もこれを模倣したのは間違いないことで、1899年と1900年に上演するために郡守の協力のもとに遊びの準備をしたときは軍隊の各豪家の不正についての情報をあらかじめ収集したというから民衆の美しい娯楽の遊びが軌からかなり離脱したといえる。